高校生の頃は、京都市内に住んで、京都市内の高校に通ってたにも関わらず、サーフィングに夢中でした。https://mucome.net/work?id=90537 (摩天崖の馬たち)
1年で、中学時代の親友を誘ってサッカー部に入り、練習試合の場合はウイングでスタメンなんかで使ってもらって、サッカーも楽しくて、部活のメンバーも楽しい人ばかりだったのに、サーフィングする時間が減ってしまうという理由で、部活をやめてしまいました。顧問の監督や担任の先生も必死で止めてくださったのですが、「海」の魅力にはどうしても勝てませんでした。https://mucome.net/work?id=93686 (浜風のふ~みん)
15でサーファーと呼ばれたよ、ってことで、ISOKOっていう小波が多めのサーフィングビーチにて、真冬にサーフデビューしました。京都って、この年齢のサーファーは、この時代には数人しかいなかったんです。みんなヤンキーや暴走族やバンドマンになる人が多い土地だったんです。
https://mucome.net/work?id=90603 (ウクレレサーファー)
7歳の頃に、テレビCMで見たサーフィングを、ずっとやりたかったのですが、周囲には誰一人やってる人がいませんでしたし、全く異次元の憧れでしかなかったんです。
https://mucome.net/work?id=89865 (涙のサーフブレイク)
12歳の時に、それまではビーチボーイズの存在も知らなかったのですが、地元のレンタルレコード屋さんで、たまたま偶然、ビーチボーイズのアルバムを借りてきて、それからずっと、英語ながらサーフィングの歌詞を聴いていました。例えば「サーファー・ガール」とか「ガールズ・オン・ザ・ビーチ」とか。
https://mucome.net/work?id=90600 (そよ風の砂浜)
その後、よく聴いた横浜銀蝿さんや歌謡曲など、とにかくサーファーの歌詞はたくさん出てくるのですが、それでも僕の中では完全に、夢物語の中でした。
で15の頃に、チューブを聴き始めて、「今年の夏の住所はOn The Beach」など、とにかくサーフィングに関連した歌詞で大好きな曲がたくさんあったんです。
そんなのに触発されて、サーフィングを始めてから1~2年たった頃には、高校生でしたが住み込みをして、有名な四国の海岸でアルバイトしながら毎日サーフィングしてました。「今年の夏の住所はOn The Beach」の歌詞の通りになったわけです。ちなみにチューブは、その頃出ていたアルバムはすべて全曲よく聴いていました。
https://mucome.net/work?id=90900 (海辺の我が家)
あそこまでコテコテにサーファーの歌詞なので、バリバリのサーファーの人は、恥ずかしくてチューブを聞けないぐらいだったかもしれません。僕はその頃は、まだ横に滑って軽く技もどきのことが出来るぐらいでしかなかったですし(まあ、文字通りレベルとしてはテケテケでした)、変わり者でもありましたし、さらに元々、ロックンロールも歌謡曲も好きだったので、チューブは、ハマりました。一緒の学校の、京都の遊び人で丘サーファーの人も友達にいて、その人もよくチューブを聴いていたから、その影響もあったと思います。高校生時代は、チューブと対照的ながら、尾崎豊さんもよく聴いてましたけどね。あとは、サーファーの先輩の影響でユーロビートも聴きました。
https://mucome.net/work?id=92289 (潮風あびて)
京都からだと、当時は神戸から南四国までフェリーで行くんですよ。
そんな時は、チューブの「セーリング・ラブ」の歌詞のイメージでした。
https://mucome.net/work?id=90927 (いつか見た岬からの景色)
「御宿大原太東抜けて」って曲は、曲調は完全にコテコテのサーフロック調で、歌詞は千葉のローカルサーファーを歌ったものでした。「志田下・夷隅・東浪見」の方がいいかもしれませんけど。
https://mucome.net/work?id=90942 (八月の砂浜)
歌詞の中に、「波乗りハイウェイ」とか出てきて、心そそられる歌詞です。
大阪からヤンファー(元ヤンのサーファーのこと)の友人が引っ越してこなかったら、僕はサーフィングを始めるきっかけをつかめずにいただろうなあ、って思います。
https://mucome.net/work?id=92285 (夕暮れの浜辺)
大阪は京都と違って、サーファーが凄く多いんです。そのへんは流石だと思っています。京都には、公認プロが一人か二人かぐらいしかいなかったのですが、大阪には同年代や少し年上の人でプロサーファーや全日本で優勝するようなトップアマチュアサーファーがいました。年上のプロの人だと、大阪のカリスマ宮内健二君やビッグウェイバー大塚直樹君、原田泰三君などがいました。遠くから憧れるような存在のプロサーファーでした。カメさんという全日本スケートボードチャンピオン出身のイケメンプロサーファーも関西ヒーローの一人でした。
https://mucome.net/work?id=24180 (遠く水平線を眺めて)
関西サーファーのバイブル的雑誌である「テイクオフ」は懐かしいです。
四国でアルバイトして、アルバイト代のことで当時もめたりはしましたが、それでも現地でお世話になったことを感謝しています。そういった地元の人がいなければ、まだサーフィング歴数年だったペーペーの僕が世界的に有名な「海部」には入れなかったと思いますから。
https://mucome.net/work?id=92290 (オフショア・ミラクル)
海部は、世界中のトッププロサーファーが訪れる1級品の波で有名です。僕も海部に入った時には、自分がまるでうまくなったのかと勘違いしそうになりました。うねりの向きや潮の干満によっては、バカっ掘れ(斜面が急で、急激に底がえぐれるような、上級者向けのスピードの付く波。)で、ボトム(海底)は浅くて、玉砂利と玉石なので、少しでも遅れると初級者には殺人的に危険な波になります。
https://mucome.net/work?id=92284
https://mucome.net/work?id=78115 (Love is Forever)
そのポイントは狭いので、定員は5人とか多くても10人とか、そんな感じだったと思います。水は清流の河口なのでものすごく綺麗な水色です。
ほぼ1か所のピークで割れるようなポイントブレイクっぽいスーパーリバーマウスの波なので、ローカルの上手い人と一緒じゃないと初級者は邪魔になるばかりです。
四国でアルバイトしている時に、そのビーチで、大きなプロの大会があったんです。雑誌やビデオでしか見たことないプロたちがやってきて、山下達郎さんやビーチボーイズのB.G.M.が大会に使われていて、すごいかっこいい雰囲気だったと思います。
https://mucome.net/work?id=90368 (ロックンロールピアノ)
その時に特に印象に残ったプロサーファーが、三重の福田義明さん、千葉の中村大輔さん、福岡の松尾博之さん、西湘大磯の鈴木弘さん、宮崎の高津佐浩之さん、などです。湘南平塚の本庄睦さんもいました。
アルバイトしてたビーチでは、アマチュアサーファーの人ともたくさん友達になりましたが、アマチュアながら、プロの大会に出場する人もいました。ホットバタードのライダーだった藤井太くんや、自分と同じチームのライダーだったワコウ君もいました。
https://mucome.net/work?id=90556 (ミッドナイト・トレイン)
四国の地元の小学生は、男女ともたくさん弟子のように引き連れて遊びました。(自分は高校生なのに、笑。リアルピーターパンのような優しいお兄ちゃん的な存在で人気者でした。)https://mucome.net/work?id=90028 (世界はみんな友達さ)
あんまり女性とは遊ばず、サーフィングとアルバイトばかりしてました。
景色が良くて雄大な太平洋大海原の海岸で、そこは京都とは全く別世界で、同じ時代に異次元の場所をそれぞれ、並行宇宙的に生きていて、人生を人の2倍生きているような感覚でした。アルバイトの期間が終わって、休み明けの学期に登校したり、街へ友人と遊びに行ったりすると、日焼けで黒すぎて、浮くぐらいでした。
それも、日焼けサロンや海水浴場などで人工的に焼くのとは違い、自然の天然の日焼けでしたからね。筋肉も、人工的にジムで作った体ではなく、天然のスーパー細マッチョで、なんか「自然」は自動的に誰でもかっこよくなりますよね。
そんなこんなで、一気に書き続けてしまったので、この辺でやめておきます。
間違ってここまで読んでしまった方がもしいましたら、ごめんなさい。笑
貴方の健康と幸せを祈っています。
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